News Release

振舞酒も相撲も禁止! 17世紀の掟書を発見

細川忠興による駿府城普請にかかる家中掟書を発見

Peer-Reviewed Publication

Kumamoto University

Edo Period Code of Conduct Consists of Thirteen Articles

image: A letter from the lord of the Hosokawa clan to the four vassals in charge stating the rules to be followed. view more 

Credit: Professor Tsuguharu Inaba

江戸時代初期の国家事業である駿府城普請(修築)にあたり、派遣された小倉藩主細川家の家臣が守るべき掟を定めた文書が、熊本大学の研究グループにより発見されました。掟は十三箇条からなり、当主の細川忠興から現地担当家臣に対し普請場運営の全権を委任するとともに、他大名家の家中ともめ事を防止するための規約が定められています。駿府城普請に関する掟の原本としては2番目の発見です。

 江戸時代(1603-1867年)の中央政府は、重要な城郭を築城・修築したり大規模なインフラ整備を行ったりする際に全国の諸大名を動員しています。これを公儀普請といい、通説では、資材や人足を出させることで大名家の蓄財を防ぎ、領内の支配体制を整備させる役割を担っていたと考えられています。日本の真ん中に位置する静岡県にあった駿府城は、江戸幕府の初代将軍(徳川家康)に縁が深く、江戸幕府にとって重要な拠点でした。慶長12年(1607)2月に大規模な拡張工事が始まりましたが同年12月に出火により大部分を焼失、直後から翌年にかけて再建されています。この一連の普請では全国より諸大名家が動員されました。

今回発見された文書は駿府城普請にあたり、北九州の小倉藩を治める細川家の当主細川忠興が、普請場及び道中で細川家の家臣が守るべき規律を定め、慶長13年(1608)1月8日付で交付したものです。全体に一貫するのは、他大名の普請衆との「喧嘩」につながる可能性のある行為の徹底禁止です。忠興は第九・十条で宛名の四人と細川家の「惣奉行」とに普請場運営の全権を委任する旨を確認するとともに、以下のように規定しています。

第一条では、駿府城普請の規律については万事、将軍側近の本多正純の指示を家中に徹底するよう指示し、第二条では、「他家中」と決して「喧嘩」を起こさないよう日々徹底し、細川家中内での喧嘩は両成敗、加担した者も本人同様に成敗せよと定めます。

第三条以下には、他家中との喧嘩の防止を目的とした規定が並びます。よその喧嘩を見物に出たなら成敗(第三条)。「下々」の奉公人が脱走して他の家中に移ってしまったとしても、強引に取り返してはならない。逆によその家中から脱走してきた者は、普請が終ってから返すこと(第四条)。小倉から駿府までの宿賃は「御法度(法令)」に準じて支払うこと(第五条)。

さらに、後半は普請に動員された兵卒(足軽)クラスの猛者たちの生態を示しています。振舞酒は厳禁。弁当を持ち寄って一箇所で食うならよろしいが、酒は「小盃三杯まで」にせよ(第六条)。町方へ出るときは用事の内容を奉行に申告して許可証を取ること(第七条)。よその家中と、また幕府衆とも会合を開くのは厳禁(第八条)。よその家中の「湯風呂」に入ってはならない(第十一条)。相撲を取ること、また見物も普請中は厳禁、違反者は成敗する(第十二条)。小倉―駿府間の往復道中は別紙に示したグループごとに行動すること(第十三条)。

普請場の〝平和〟を維持するため、家中末端の奉公人層や夫役人に至るまでの規律を定めた本史料の内容は、戦乱から「天下泰平」への時代の転換期における武家社会の様相を生々しく伝えてくれます。

本文書の発見・解読に携わった熊本大学の稲葉継陽教授は次のようにコメントしています。

「本文書発見の学術的意義は、この時期に相次いだ幕府による城普請への諸大名動員の政治史的意味を考察する上で多くの情報を提供してくれる点にあります。」

これまで駿府城普請の掟書は、原本としては毛利輝元(長州藩の藩主)が制定したもの、後世の写しとしては前田利長(加賀藩の藩主)制定のものが知られるのみでしたが、本史料が発見され、三家の掟の趣旨が似通っている事実が確認されました。これは、各大名家に幕府側から普請場法度の大枠が示され、それに基づいて諸大名家が当主名義の掟を定め、それぞれの家中に徹底しようとしたことを意味しています。

このわずか7年前の大きな内戦(関ヶ原合戦)では、細川家と毛利家はそれぞれ敵と味方の関係にありました。一つ間違えば旧恨に火が付き、大きな紛争に発展しかねません。幕府は、数年前に敵味方に分かれて死闘を演じた諸大名家を敢えて同じ城普請に動員して規律化し、共同作業の実績を目に見える形で積ませようとしました。大名家どうしの紛争を徹底的に防止しようとする本史料の詳細な内容から、幕府が諸家中の関係を融和して内戦の火種を除去しようとしていたこと、つまり「天下泰平」確立のための戦略として国家プロジェクトを実施していたことが伺えます。

本史料は令和2年11月4日、熊本大学附属図書館のオンライン貴重資料展で初公開されました。

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Reference:
https://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/about/events/onlinekichoshiryo
*『慶長13年正月8日 細川忠興駿河御普請中掟』


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