熊本大学の研究によって、17世紀の日本で小倉藩細川家の当主 細川忠利がワインを製造させていただけでなく、薬用としてアヘンの製造も試みていたことが明らかになりました。
日本の文献に初めてワインが登場するのは15世紀から16世紀頃、キリスト教の宣教師や貿易商人によって西欧より日本にワインが伝えられたとされています。以降、ワインは貴重な嗜好品や贈答品として日本に輸入され続けました。一方で国産ワインの醸造が本格的に開始されるのは開国以降の1870年代に入ってからになりますが、それより200年以上さかのぼる1627年に小倉藩細川家にて葡萄酒が製造されていたことが、2016年に熊本大学の文献調査によって明らかになりました。この時の研究で、小倉藩の当主である細川忠利が家臣の上田太郎右衛門に命じて、原料となるヤマブドウから葡萄酒を製造させ、中央政府のある江戸(現在の東京)へ送らせていたことが判明しています。
今回、さらに詳細に資料を調査したところ、葡萄酒が確実に製造されていたのは1627年から1630年の4年間で、この間忠利の命により毎年葡萄酒を仕込ませ、納品させていたことがわかりました。製造を担った太郎右衛門は舶来の南蛮技術や薬酒造りなどの技術を持っていたため、忠利が抜擢して家臣に加えた人物です。また、材料として主材料のヤマブドウの他に、黒大豆が使われていたことも明らかになりました。黒大豆は発酵促進作用があるため、黒大豆の酵母を添加することで糖分の少ないヤマブドウの発酵を助けていたと考えられます。つまり、忠利の造らせていた葡萄酒はヤマブドウをアルコールに漬けた果実酒(混成酒)ではなく、アルコール発酵させた醸造酒であることが明らかになりました。
さらに、葡萄酒製造と同時期の1629年には、驚くべきことにアヘンを製造していたことも明らかになりました。アヘンは当時、長崎を通じて輸入されたものが鎮静や鎮痛、咳止め、催眠などの薬用として用いられていたと考えられます。アヘン製造を担当したのは葡萄酒製造と同じく太郎右衛門で、春に製造を始めて秋に約1.27kgを納品しています。この前年(1628年)の史料にはアヘンの輸入に関する記述があり、「(長崎から)取り寄せたアヘンは気に入らなかったので返品するように」など、忠利が高品質のものを求めていたことがうかがえます。
葡萄酒の輸入はアヘン輸入の記述よりもさらに古く、1623年には、忠利が長崎で葡萄酒を買い付けるように命じる書状が残されています。甘いのがよい、と味に関しても指示しており、2年後の1625年にもやはり甘い葡萄酒を買ってくるよう命じています。その後、葡萄酒製造期間を挟んで1631年にも薬用に上質の葡萄酒3.6リットルを調達するようにとの指示があり、以降、葡萄酒の注文は1639年まで続きます。
1638年には、病を得たまま島原の乱(キリスト教徒弾圧の内戦)に幕府側として出陣した忠利が、領地である熊本から陣中まで薬用として葡萄酒を運ばせています。一方で、同年、葡萄酒を好んだ別の地方の藩主が、忠利の子を通じて葡萄酒を所望していますが、忠利は「長崎にも問い合わせたが、葡萄酒はキリシタンを勧めるときに要る酒なので、心配して一切売買がない」と返答します。以前に入手した葡萄酒を信之に送るよう手配していますが、こうしたやりとりから、葡萄酒はご禁制のキリシタンの飲み物だという認識が諸大名や商人の間にもあったということがわかります。
翌年、熊本から江戸に出仕するにあたって、忠利は葡萄酒を後から江戸に送るよう指示し、また長崎商人への注文を最後に、これ以降葡萄酒に関する記述は途絶えます。病気がちな忠利にとって葡萄酒の薬としての価値は大きく、一方で、幕府に対する忠臣として名高い模範的な大名であるために、忠利はご禁制のキリシタンの飲み物である葡萄酒の製造や輸入を続けるわけにはいきませんでした。その苦悩がしのばれます。
史料からは、葡萄酒やアヘンの製造を担った太郎右衛門らが南蛮料理や南蛮時計などに関する舶来の技術を有していたことがうかがえ、彼を重用した忠利がこうした舶来の物や技術にとりわけ関心の高かった様子がわかります。島原の乱の鎮圧後、幕府はポルトガル船の入港を禁止してキリスト教を排除し、西欧との貿易は布教を一切しないと約束したオランダに制限されて日本の鎖国が完成します。鎖国が完成するまでのわずか二十年の間に盛んに葡萄酒を求め、製造まで行っていた忠利の情熱が今回の研究によって明らかになりました。
本研究成果は、永青文庫研究センター発行の紀要の創刊号(平成30年3月発行)に掲載されました。
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