科学には占いなどに見られる「魔法の水晶玉」のような便利な物はありません。予知や予測は、研究者が実験から集めたデータをすべて詳細に観察することで行われます。 ところが神経生物学の分野では、指の単純な動きから深い哲学的な思索までを制御する神経細胞が観察対象となるため、正確に測定するのが困難です。
そこで登場するのが、シミュレーションモデルです。 実験的な観察に基づいたシミュレーションは、その模倣された物事や現象の正確な予測を可能にします。これらの予測情報に加え、高度な計算プログラムを併用すれば、さらに高度なモデルを作り上げることができます。今回、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の科学者たちによって大幅にアップグレードされたある重要な神経細胞の計算モデルこそが、その良い一例になります。本研究成果は Cell Reports に掲載されました。
今回の最新計算モデルから、プルキンエ細胞として知られる神経細胞のバーチャル版が作られました。 小脳にあるプルキンエ細胞は中枢神経系でも最大級の大きさを持ち、体の正確な動きなどを制御するのに役立ちます。 このようにとても大切な働きを担うため、その機能についての理解がいかに重要かは、言うまでもありません。
実は過去にもこの神経細胞の機能を説明すべく、ベルギー出身の神経科学者で、OIST計算脳科学ユニットを主宰するエリック・デシュッター教授が1994年に同様のモデルを提案しました。ただ、その計算モデルにも改善の余地があることは以前から認識しており、「新しい研究データを入手した際に、このモデルには正しくない側面があることが分かりました 」と、デシュッター教授は語りました。 モデルをアップグレードする必要性を感じていいたもの、膨大な時間を必要とするだけではなく、研究分野そのものにも新たな標準などを設ける必要があり、決して簡単なことではありませんでした。
ここでユンリャン・ザン博士が登場します。 心機能モデリングを専門とするザン博士は、OISTで行われている神経科学分野の研究プロジェクトに自然と心が惹かれました。「心臓モデリングの分野では、広範囲にわたって実証されたモデルを完成する必要があります」と、同博士は述べ、「それに比べると計算脳科学では緩い部分が多く、その点を改善したいと思いました」と、語りました。
意を決したザン博士は、プルキンエ細胞が登上線維と呼ばれる神経構造からのシグナル入力により効率的に機能できることを示す実験データに基づいたモデルの作成に挑みました。そして、これを実現するにはまず、ニューロン(神経細胞)のバーチャル版を作る必要がありました。
バーチャル細胞の作製は、まるで携帯電話を一から組み立てるような作業です。組み立てるにはまず、最初に「チップ」と呼ばれる個々の集積回路を制作し、それらを正しい順序で組み合わせていく必要があります。 これをプルキンエ細胞に当てはめると、このチップに該当する部分が個々の神経細胞になります。 以前のモデルはニューロン全体からの実験値に基づいていましたが、今回のザン博士による画期的な方法では、構成部分からの正確な記録よりモデルを作製しています。 結果として、まるで携帯電話の組み立てと同様な、個々の部品を集めては、全体として機能するものを作り上げる作業となりました。
モデルとして成り立つには、さまざまな状況から起こり得るすべての結果に対応し、その都度正しい回答を導き出せなければなりません。このレベルにまでモデルを持っていくには、既存の研究結果を用いた調整が必要となりました。ザン博士は、「世界中の科学者に研究データを共有していただくよう、懇願する必要がありました」と述べ、「完全な全体像をつかむには出来るだけ多くの情報を得ることが不可欠でした」と語りました。
大量のデータを扱う場合、その数と同じほどの大量な問題が生じます。 ある研究グループの実験データが、他の研究グループの実験データと矛盾する、というようなことです。 ザン博士は、この計算モデルにおけるこれらの矛盾した観察結果を一致させるという、気が遠くなるような作業に直面しました。 「2年半の間、試行錯誤しては、実験の観察結果をモデルが再現できるようにしました。そして、これらの結果の相違は、実験条件の違いに起因していたことも判明しました」と、ジャン博士は言います。その結果、神経細胞がどのように機能しているかをはっきりと説明するのに使用できる、より確かで信頼性の高いモデルが出来上がりました。
スマートフォンなどの携帯電話を操作する時を想像してみてください。これといった目的もなく画面を指で押すことは簡単です。では、例えばお気に入りの最新のTwitter投稿を見つけたい場合はどうでしょう。特定のアイコンを探してピンポイントで押すという動作は複雑なため、 あなたの小脳はリアルタイムで状況判断しながら、指先を動かす手助けをします。 この様な行為は登上繊維と呼ばれる神経を介して達成されると考えられており、小脳の他のニューロンに正確な動作を行うためのシグナルを送ることが出来るのです。
これまでは、登上繊維から出る信号は、その影響が手を動かすか否かを指示するような二元的なものであると考えられていました。 しかし、ザン博士の研究によると、登上繊維は特定のボタンを押すといった、より複雑な指示のシグナルを送っているということが示されました。 つまり、ザン博士のモデルは、プルキンエ細胞は全か無かの体への信号に反応しているのではなく、その中間となる信号などにより、細かい動作の照準を合わせることを可能にしていることを明示しています。
そして最終的にはプルキンエ細胞の「樹状突起の森」内を流れる信号に対し、ブレーキのように作用するカリウムイオンの流れに対しても新たな発見がありました。 ザン博士氏は今回のシミュレーションにより、電位依性カリウムイオンの流れのブレーキ効果の変動が、細胞内におけるシグナル伝達の効果に影響していることも発見しました。
このモデルが秘めている可能性としては、今回の発見は氷山の一角にすぎません。今後は同じ分野のすべての研究者にとっても、より安定した新しい基盤としての役割を約束していくことでしょう。デシュッター教授は、「とても嬉しいです。この新しいモデルは今後、長期にわたりその役割を発揮していくことでしょう」と述べ、「この分野の新しい標準となるでしょう」と期待を込めて語りました。
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Journal
Cell Reports