適度なフラストレーション(不安・苛立ち)は人生に奥行きを与えてくれます。これは物理の世界にも当てはまります。競合する力が複数あって、同時にどちらの安定性も満たすことはできない状態はフラストレーション」と呼ばれ、このような状態にある物質には特殊な性質が見られます。通常、水を構成している水分子は温度が下がると規則正しく整列し、氷の結晶を構成します。磁性体を構成する原子もまた、温度が下がると個々の原子内にあるスピン(極小の磁場)が同じ方向に向き始めます。しかし、「スピン液体」と呼ばれる状態はこれと異なり、低温であるにもかかわらず、スピンが整列せずに揺らいだままバラバラの方向に向いています。この特異な物質の状態が物理の世界に新たな発見をもたらすのではないかと期待されています。沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究者らは、あるスピン液体を記述するモデルをつくり、そこで秩序と無秩序が併存する状態がありうることを理論的に実証しました。この分野の研究では、3本の重要な論文がマイルストーンとなっています。
まず、OIST量子理論ユニットのルドヴィック・ジョウベルト博士が、英国のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンとフランスのリオン高等師範学校の研究者らとおこなった2014年の共同研究で、磁気秩序と無秩序が同時に存在する可能性を検証するためのシミュレーション実験をおこないました。ジョウベルト博士らは、フラストレート磁性体(各原子内でスピン同士の力が競合している状態)に中性子を照射するとどう散乱されるかをシミュレーションし、色鮮やかな中性子散乱図を作成しました。原子が規則正しく整列した状態にある場合では「ブラッグピーク」と呼ばれる点が現れ、スピン液体状態では「ピンチポイント」と呼ばれる蝶ネクタイの形が現れます。ところが、シミュレーション結果を示した中性子散乱図には、ブラッグピークとピンチポイントの両方が表示されました。これは、スピン液体の無秩序特性と、秩序状態にある磁性体が併存する可能性があることを示唆します。
「スピン液体は磁性無秩序の代名詞です。驚いたのは、半秩序状態の磁性体のなかにスピン液体の特徴が見られたことです。この発見はが、凝縮系物質に対して理解を深める大きな動機付けとなります」とジョウベルト博士は言います。
この分野の研究における重要な節目となった二つ目のマイルストーンはジョウベルト博士らが打ち立てた理論がジルコニウム酸ネオジムと呼ばれる磁性物質を使った実験で立証されたことです。本研究成果は今年初めに Nature Physics 誌で発表されました。「この実験結果は、ジョウベルト博士により2014年に提唱された磁性体の秩序性と無秩序性の併存を裏付けるものです」と、オーウェン・ベントン博士は言います。ベントン博士は以前OISTで、ニック・シャノン准教授が率いる量子理論ユニットに在籍していました。
しかし、この実験結果とジョウベルト博士の理論的洞察を関連づけるには、さらなる研究が必要でした。ベントン博士はこの度この磁性体に適当な微視的な模型を理論的に構築するというマイルストーンを築き、その研究成果を Physical Review B に発表しました。その微視的模型の理論により、ジルコニウム酸ネオジムが秩序と無秩序が混在した状態にあり、非常に珍しい特性が備わった磁性体であることが分かりました。
さらに、量子の世界へと続くもう1つの扉が開きつつあります。ジルコニウム酸ネオジムが量子スピン液体へと転換しかけているという稀有な状態にあることが明らかになったのです。真の量子スピン液体でとは、スピンは時間の経過に従って様々な方向に揺らぐのではなく、同時に複数の方向を指し示します。
「量子スピン液体の存在を明らかにすることは、シュレーディンガーの猫(重ね合わせの原理)をより大きなスケールで実証するようなものです」と、ベントン博士は言います。シュレーディンガーの猫は量子力学における有名な思考実験で、放射線源となる物質が入った箱の中に入れられた猫は、生きていると同時に死んでいるという理論を考察するものです。生と死という異なる状態にある猫と同様に、複数の異なる状態にある磁性体を実際に発見するための道筋が本研究によって開かれたと言えるかも知れません。
「今回の研究により、ジルコニウム酸ネオジムの物理的特性をかなり明確に把握することができるかもしれません」とベントン博士は言います。今回の研究を初め、それに関連した物質の研究に理論と実験の両方から取り組むことで、さらに予期せぬ驚くべき現象が明らかになると期待されています。
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Physical Review B